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鈴木庸生(人名検索)

追悼 (5)

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追悼 4  「鈴韻集」から
昼食の思い出 (故) 寺田 喜代松
 理研の昼食は一般食堂の設備もあるが研究室によっては適当な部屋に集まって研究の話や世間話をしながら愉快に食事をするのが毎日の楽しみであった。鈴木研究室でも中央の一室に集まって雑談に花を咲かせながら食事をするのが毎日の楽しみであった。研究に関する討論もでれば時事問題や世間話も出て鈴木さんを中心に真に暢然<原文通り>とした和やかな情景であった。分析は面倒だから水溶液中のイオンを一つ一つピンセットで摘み出す工夫は無いであろうか、或いは又蒸発は時間と燃料が不経済であるから溶液中の溶質を残し水分だけを吸い取る様なスポンジは無いものか、このような方法をが出来れば海水中の食塩を採るのも雑作ない等と夢の様な議論も飛び出してくる。
 ご飯は一般食堂から運んでもらい、お菜は1ケ月交代で二人の当番が準備する。鈴木さんだけは免除である。当番に依ってご馳走も思い思いであるが無精者揃いのゆえ、自然と手数の掛からないものが選ばれる。ハム、ソーセージ、コーンビーフ、アスパラガス、佃煮、燻製の鮭、焼き海苔等が最も多い。しかし物資不足の今日から考えれば全く贅沢な食事である。時には牛肉と野菜を大蒸発皿で煮る事もあり、近辺の料理屋鰻の蒲焼、天ぷらや洋食の一品料理を取寄せて済ませる事もある。同室のK君が実力という名を頂戴したのは確かに牛鍋料理の時である。五回の裏、六回の表などと景気良く飯を盛りかえて詰め込んでいる間に実験中の電気炉も負けず劣らず熱が昇り遂に白金坩堝<ルツボ>を完全に溶蝕してしまった。鈴木先生は意気消沈したK君を元気づけて「よく食い、良く飲む者、寿にして康なり」と言われた。K君気をよくして「僕の姉の名が寿であります」と得意になっていた。 時には当番引率のもと所外へ、池の端の揚げ出しにもよく出かけたものである。そんな時実験の都合で出られない人達の為に鈴木さんはお土産を下げて帰られる。又お宅から奥様のお手料理を取寄せて土佐の鰹のたたきをご馳走になった事もある。
 鈴木先生の博識多趣味は有名であって、毎日の昼食後、興が乗れば二時間も、三時間も面白い話を聞かせてくださった。我々研究者にとって雑談は決して無駄ではなく、笑い話をしている間に優れた思いつきが生れることがしばしばあるものだ。笑いの中に人情の機微を穿ってほろっとさせるのが喜劇だとすれば、笑いの中に真理を発見するのが科学であるかも知れない。
 先生の雷嫌いは有名で、雷が鳴り出すと落着きのないご様子であちらの部屋へ行ったりこちらの部屋へ来たり遂にはアルコールに水を割ってチビリ、チビリとやっておられた。又先生は見かけによらず器用で、硝子細工やハンダ細工など実に鮮やかなものであった。又趣味の研究として空き瓶利用のナメタケ栽培は見事な出来映えで収穫された。茸はよく昼食のお菜に頂いた。思い出深い話は種が尽きない感じがするが先生のご冥福を祈ってここで筆をおく。
先生の頭脳 福島 信之助
 私が学生の頃、理研の研究発表は所外の東京府商工奨励館で行われていて毎回発表を聞きに行ったのである。多くの新進気鋭の先生方の発表があった中でちょっと型破りな体格のガッチリした現場技術者の様な外貌でありながら極めて言語明晰でしかも固くなく余裕綽綽<ヨユウシャクシャク>の内に人を魅了させる人があった。その内容はウルトラジンに関する初期のものであって自分が興味をもっていた写真化学であった。卒業間近かな私はひそかに師事する方は外になしと心に決めていた。その後大学から紹介状をいただき直接理研で先生からお話を伺い益々決心を固くし、遂に卒業論文のご指導をお願いし卒業後も引続きご教示を仰ぎ、先生が亡くなられる一時間前までお話を伺い研究の道をお示し受け続けたのである。

 先生の化学的造詣の広く深かった事は有名で、研究の卓抜且つ着想の妙の一例ををあげるとすれば、アルミニューム、マグネシューム製造、ボロンの製造、研磨用アルミナの製造等の無機化学的なものから油脂の脱水素反応、135トリスルフォン酸の合成、アミンと塩化亜鉛との添加物、ローダミンの色素の一つ新誘導体シラミン等学術的なもの、又甘草<カンゾウ=豆科の多年草、特殊の甘味がある生薬として鎮痛、鎮咳剤に使われる>の甘味成分、ホルモン、燃料用メタン、太陽光利用の温水装置、写真の方では学位論文となったハロゲン化銀の水性媒間に於ける散乱現象、引続いてのエリスロシンの光分解があり、一部工業化されたものは保温剤、セメント耐水剤、昼間映写膜、写真用エリスロシン等があるが、この外に着想だけで実験を中止したものにも今日工業上、学術上、問題となったものも少なくない。例えば透明容器に可溶性の塩を入れ、水を注いで湯煎上に放置すると下方から数段の層が出来る。層の数は温度が大きい程多く出来る現象は大抵の研究者が実験室内で認められながら不思議とも思わず見過ごして来た現象である。又、昼間映写膜の研究等は初めセロファンを折り重ねたものを映写面に当てると非常に明瞭に写真が見え、一方散らした雲母が襖に使われ良好な反射面を有する所から燐片状の結晶を用いる事を考え、燐酸コバルトアンモニュウムの燐片状結晶を用い、重ならない様に硝子上に配列する方法を考案された。次いで燐酸マンガンアンモニュウム塩が燐片状の光沢を有する点からこれを人造真珠の塗料に用いる等、実に着想が豊かであられた。

 先生の頭脳の広さは定評であるが、私はかつて金粉の製造方法や日本古来の製造方法等を伺った事がある。これらは今日では余り珍らしくないかも知れないが、先生のお話を通じて極めて原始的な工業法が化学的解釈を以て語られ当時欧米心粋の技術の中に日本古来の無意識であるが優秀な方法が我国にも存在していた事を知り、若し今日先生がご存命であれば定めし製鉄界に貢献されたであろうと思われるのである。

 先生が又エスペラント語を始められたのは前に研究室におられた前田勤氏に依ったのではないかと思われる。研究室でコツコツ勉強されているのを度々拝見した。語学を天才的であられ英独仏を自由に話され、ことに酒に酔われると支那語も交じって等、今日の化学者から見るとその語学的素養は遥かに上位にあった様である。

 先生は私と23年も年長でおられたので常に父、或いは祖父に対する気持ちであって、ことに私の祖父に似ておられたので尚更この感が深い。先生の実験室は未だ模様変えがしていないので亡くなられて2年を過ぎた今日でも伺うたびに思い出されるのである。
プレタンの思い出 井上 廉太郎
 昭和56年頃理研に所要あって往復する内に何時ともなく先生の風采に接し又学術講演を拝聴するに従いその風格に見せられるに至った。先生は研究題材が広汎豊富なるのみならず、非凡な創意と無限の暗示とを以て私共に幾多の啓発をを与えられ多た。その後、機会あるごとに先生を研究室に訪れるのであったが、お忙しいお仕事中でもいつも快く迎えてくださって隔意なく談話を交えてくださった。この様な関係でご交誼を得たのであるが鈴木先生と西村順一氏のご研究の、有機硫黄化合物に興味を引かれ遂に先生に乞い研究成果の一つであるフェニルチオユレセンの薬物への応用をお許し願った次第である。
 元来硫黄に殺菌力がある事は古くより知られ一般人も認めている所であるが、その薬物的作用に就いては未だ充分解明されておらず、将来に於いて必ず研究対照物として注目されるものの一つと考えていた。従来薬物として応用されつつある硫黄剤は天然資源より採るものが多く糖の乾留物、鉱物性のイヒチオール系化合物あるいは単体の硫黄又は簡単な無機化合物二、三が発表されたに過ぎない。有機化合物として初めて出たものはドイツバイエル製のミチガールで相当効果を認められるのであるが、油性薬品であり且つかなり悪臭が強いのを欠点とする。何かこれに代わる優秀な硫黄剤の出現を期待していた際に、鈴木博士、西村学士のフェニルチオユレセンを発表され、八谷氏に依って薬物効果を究明された次第である。この化合物は在来のイヒチオールミチガール或いはピチロールに比較するとほとんど臭気は無く美麗な結晶であってしかも顕著な殺菌力を保有するものであって有機硫黄剤の数多い中に、卓越したその効果は常に讃嘆を惜しまないものと自認している次第である。本薬品の薬理学的研究はニ、三の医大で治療効果試験をお願いした。この重要な研究にも拘わらず種々の関係で本剤の真価が充分世に認められない事は慙愧に堪えないと思う。これとは別に慈恵医大石川研究室では硫黄化合物の薬物学的研究を遂行され、動物腸内の寄生虫駆除作用を示す事を発見された。我国では寄生虫罹患者が極めて多く国民保健上なおざりにしておく事の出来ない現状である。従来使われている薬剤はサントニン、海人草、その他若干の天然植物性薬であるが昨今品不足で充分一般の需要を満たしていない。この時にフェニールチオウレタン製剤を発売出来る様になった事は我々関係者の喜びばかりでなく、我国にも大いに貢献したと自負している。これも鈴木先生の卓見と石川教授の真摯な臨床試験のお陰である。あの豊頬とあの温籍な風容を思い出で、そこはかとなく綴りたるままに亭々<樹木の高く真っ直ぐにそびえ立つさま>真実に及ばぬ恐れるのみ。 
パラモンの思い出 井上  謙太郎
 先生とは東西の旗亭<キテイ=中国で旗を立ててその印としたことから=料理屋、酒楼、旅籠や>にお供させて頂きました。ご家庭に伺い賢夫人のご歓待を受けた事もありました。
 ドイツ製のニパギンと称する飲食物防腐剤に数年前から着目して、輸入をしていた訳ですが、各方面に使用にされた記録等を示して鈴木先生にご相談したところ、早速研究くださり、更に能率的な製造法を考案され、優秀で収量多い製品を得られる様になった。この薬剤の化学名はパラオキシ安息香酸エステル類であって理研名でパラモンと称した。これは我国に於ける食料防腐剤の矯矢<原文通り>とも言える食品衛生上一大貢献をもたらしたのであります。昭和12年内務省に申請し、清酒、醤油、果実汁、蜜等に本剤使用の許可が出て仏和英辞典からエポックメーキングの一句を見付けニ、三人の同士と相談して社名を「エポック・プロダクツ・コーポレーション」と看板を掲げた所、映画会社と間違われた事もありました。このようにして鈴木先生のご指導の下にパラモン製造の先鞭をつけたにも拘わらずその後本剤の優秀な効果が世に認められると共に各方面の化学工業系大会社が競って製造を開始した関係もあり、理研の方でも種々の事情があって一時製造中止になったのであります。しかし鈴木先生独特のパラモン製造法の大意は先年ある機会にご教示を得て大体会得出来ておりますので、現在鋭意、事業化を志している次第であります。この時に当たり突然の訃報に接し直接製造に関するご指導を仰ぐ事が出来ない事は誠に残念で悔いても尚余りあるものがあります。この上は先生ご創案に掛かる卓抜なパラモン製造事業を一日も早く完成してご恩顧に報いたいと念願している次第であります。
先生と東京市清掃部試験所 佐々木  元
 先生のご指導を受けて東京市の試験所で私が塵芥有償化の仕事に従事したのは余り永い月日ではないが、その僅かの間に先生から受けた色々の学問上のご指導と公私に及ぶ日常のお話は実に私のこれからの一生を通じて決して忘れる事の出来ないものであり、且つ先生のあの該博な見識と円満で含蓄のある日常の座談を時々うかがう事の出来た私は何と幸福の者であったろう。一週に一回先生にお目にかかる事を常に常に待ち遠しく思うくらい楽しみにしていた。先生の様な大家には一目も二目も気が置けてお尋ねしたい事があっても、つい億劫になり勝ちであるが、先生に対しては畏敬の念は持っても慈父に対する気持ちで何でも伺える様に思われたのは先生がいつも限りない慈愛の心を以て我々後輩をご指導下さったご高徳の然らしめる所と深く感謝している次第である。
 先生の当試験所に於けるお仕事は各般に亘っていたが、その主なものは二つの特許となって残っている。
 その一、特許第143803号は「共沸ニヨリ塩酸糖液ヨリ塩酸ヲ除去スル法」で塵芥中の含水炭素質を強塩酸で加水分解して糖化した後、存在する強塩酸「クロロフォルム」「ブロムエチル」塩化「ブルピル」ニ硫化炭素又は約60度で沸騰点を有する「ガソリン」等の蒸気を吹き込み塩酸糖液中の塩酸の大部分を除去する方法である。
 そのニ、特許第150050号は、「塵芥処理法」で一定の容器内に収容した塵芥に空気を混入して塩酸ガスを導入し、摂氏60度を越えない温度下で処理し、塵芥中に存在する含水炭素質を糖化し、その可溶液成分を水を以て浸出する塵芥処理法である。二件共塵芥処理の新方法として含水炭素(主として繊維素)の糖化発酵に関する有益な発明であって永く先生の記念となるものである。<以下省略>  
保温材の想い出 竹元 苪
 私は昭和8年8月初めて鈴木先生にお目にかかり保温材「ミネラルフェルト」の発明を承り実施に関するご相談を受けたのですが当時全く知識を持たない私は驚きと不安とで一度は辞退をした次第でしたが、その後鈴木先生の熱意に動かされ漸く工業化の決心を固め半年後には工場配置、機械設備の設計を了しました。昭和9年小田原に300坪程の敷地を求め試験工場を設ける事になりました。4ヵ月目には小さいながらも予定通りの工場を完成しました。最初の試作品は品質や技術の点で理想的製品には程遠くその後一年半は経営上筆紙に尽くせない苦労を重ねました。鈴木先生も非常にご心配下さって理論と実際につき懇切にご指導頂き「必ず成功する心配するな」とおっしゃられました。しかし仕事は遅々として業績は上がらず相次いで起きる問題に直面する度毎に先生に泣き言を聞いて頂こうと理研の門を潜るのでした。所が先生は何時も代わらない温顔でで迎えられ「どうもご苦労さま」と丁寧に椅子を勧められご自分で緑茶など入れて仕事の様子を聞かれ真剣にご相談下さるのです。その毅然としたお姿に接しただけで自分の弱音などを申上げ様とした気持ちが恥ずかしくなり、ただ仕事の話に夢中になり感激と希望を抱いて帰る様な次第でした。
 「理研ミネラルフェルト」は鉱物性繊維と特殊化学的方法に依る瀝青質、結合剤を以て処理し、成型、過熱して造る鈴木先生の発明、特許品なのでありまして、とりあえず捨場に困る鉱滓綿の再利用が目的であります。昭和11年10月頃から原価は高いながらも予定に近い生産量を上げる様になり、需要もあり、将来に対する活気も出始めました。小倉石油株式会社、東京製油所のチラー絶縁工事が始まるとの話を鈴木先生はどれ程お喜び下さったか、「今に必ず間に合わない程注文が来るよ」と本当にうれしそうにおっしゃられ、今も耳朶に聞こえる思いが致します。折りしも品川煙草専売局からの注文を受け一年分以上もの製品を短期間に必要とするので、乾燥設備の増設、倉庫の建設を急ぎこの難工事も無事完了し、世間の耳目を驚かす事となりました。昭和12年には川崎工場の新設に至りました。殆どの設備は試験工場のままで製品乾燥は生産能率を左右する最も重要なものとのお考えから、隧道式70メートルとし、コークス炉で石炭ガス発生装置に依る熱風乾燥に改め各部独立作業の出来る設備となりました。ただ、主要材料の一つである瀝青質結合剤は市販品ではなかなか適当なものがなく、自家製とするご指導で、約一年の研究で完成しました所先生は「柵をして秘密工場とせよ」と言われお喜びを頂ました。
 こうして仕事の業績も一歩一歩順調に亘り商品としての欠点も解決し続けて来ましたが何分類例のない仕事だけに設備その他も次々と改良を要する現状にあり、今後益々先生のご指導ご鞭撻が無ければ如何とも致し方ない状態にありながら突然の先生の訃報に接し、全く何と申してよいか千万の感情ひしひしと胸に迫り「しまった」と思いました。先生が「ミネラルフェルト」を考案されたのが昭和7年春頃、当時先生はご研究が多方面に亘り極めてお忙しいにも拘わらず、これは将来社会に貢献する事は確実だという信念の下に爾来十年一日の如く手塩を掛けて頂いた事を思えば感謝に堪えない次第です。
博士と京都写真工業株式会社 横田 多喜助
 私共が京都写真工業の事業を目論んだのは昭和13年の春であった。当時発起人中に博士の写真化学に対する造詣の深いことを知っている者も多かったので、まづ第一に博士に相談に行き快諾と激励により初めて創立したのである。そして博士を顧問として博士の指導の下に諸般の準備は開始された。京都に工場を建設する一方、東京小石川に研究所を設け博士より日夜懇切極まる指導を受けたのである。当時我写真業界は盛大であったと誰もその製品の原料の大部分は専ら外国依存により組み立て式国産品であった。我々の決意は即ちすべての原料を全て純国産品に求めて至難な写真乳剤工業に出発したのであった。
 軍部、大蔵、商工も我々の意図を了解し大いに激励し、等しく博士に期待するところが深かった。即ち使用の厚紙は三菱製紙会社の抄造厚紙を用い、ゼラチンは適当な国産品が無い為、差し当たり輸入品を使用したが、新たに博士を顧問とする三伸化学工業会社を設立して京都写真工業会社と平行して国産ゼラチンの製造研究を始めた。その他の薬品諸原料の全て国産に求めた。人像用、一般用の印画紙を市場に送り漸次博士の指導研究による新製品を出す段取りであった。

 当時博士は京都写真工業会社の前途を祝福して同社の機関誌「京都レポート」に一文を寄せている。
 「凡そ百年前には写真は一部の娯楽であった。光の作用で書が出来る事、それ自身が多大な娯楽であった。それから次第に写真術が発達して今日では既に娯楽の域を脱し人間生存上には必要不可欠のものとなったのである。軍事上、通信に測量に工業に、農業に、衛生に教育に或いは化学、物理学、生物学等、科学上百般の研究に迄写真が使用される様になった。
 事変以来写真術の応用は一層輪に輪をかけて至大の勢いでその範囲を拡大している。しかしここで用いられる資材の方は正反対の状況が観られる。これ迄は一もニも外国と皆、外国製品に依っている。外国製品の名を知っている者が写真術の権威者であるかのような風潮である。事変以来外国からの資材の輸入がピタリと止まって同時に我国の写真材料の製造は未だ国内の需要の半分にも及ばないので業界は実に四苦八苦の状態である。いかに写真術が発達したとしてもこれに必要な資材がなくては『腹が減っては戦はできぬ』 で何とも仕方がない次第である。例えばバライタ紙のようなガラス板のようなゼラチンのような主要な原料は皆同様である。これも矢張り輸入が止まって商工省に日参して漸く所要量の幾分かの輸入の許可を得る次第で実に手も足も出ない有様である。京都写真工業会社はここに見るところあって原料は何もかも国産により、科学的研究を骨子として精巧な技術で写真材料を片っ端から製造して国家の需用に充てる計画の下に創立されたのである。しかも創立後まだ日が浅いためそう、うまく理想通りにはまだまだ行かないところもあるが、期するところは前記の通りである。重役諸氏、従業員諸君の物資独立に対する奉公の燃える精神は遠からずして本社をその目的地に到達させる事は疑う余地もない。いささか所感を述べて当社の前途を祝福する。次第である」

 当時早くも原料資材の独立を叫ぶ博士の達見と烈々な国家的精神は敬服の至りである。
 京都の業績は開始初年、二年は順調であった。小石川の研究室には、毎日博士の顔がみられた。多忙な理研のお仕事の傍ら、孫のような助手を相手に夜遅くまで新乳剤の研究に時間を費やされたのであった。研究部員が行き詰まって、博士に教えを乞うと立ちどころにその難所を解消し、代用品に依る窮通打開の道を指示されるのであった。
 昭和15年になり、時局は益々重大となり、原料薬品の入手は益々困難になって来た。スタートは順調だった京都の製品「祇園」「比叡」もその影響を受けずにはいられない、国産品厳守の無理は幾多の困難を生み、製品の上に現れ俄かに市価を失墜し、15年の秋頃から会社の業績は著しく不振になった。博士の心痛も一通りでなかった。 

  博士は小石川研究室で川口技師や吉田助手等を相手にX線感光乳剤や高速度感光乳剤の研究を指導される傍ら三菱製紙会社の技術の援助を受けて、フィルムに代わる透明紙の研究をすすめられ又写真工業が将来軍事用、工業用に密接な使命あることを予想して、その方面への感光材料の提供も考えられていた。  その頃ドイツ製複写印画紙にヒントを得て、国産への企画を研究生の大山工学士を助手として、色素応用の研究を進められた。この研究には最も心血をそそがれたものであった。

 博士の没後、歌人佐佐木の信綱博士は次の様に詠んでおられる。
             考へて思ひいたれば まよ中も
                    おきて暗室に入りしといふ君 

 日夜寝食を忘れておられたのである。研究室での研究が一段落付いて京都の工場で試験を始めるやその試作品は、連日博士の手許に送られた。博士はこれを一々実験され、その改良点を指摘し、直ちに送り返されていた。倦<ウ>まず弛まず何十回の試料は往復したことであろう。
 昭和16年1月16日、その日も理研の研究室で認められたであろう、京都工場の乳剤技師川口氏宛の手紙に「もう少し硬調にせよ・・・」云々との文字があった。そしてその手紙を持って自らポストに投函されて帰宅された。その日は朝から横田さんは未だこないかとしきりに待たれていた様子であったが少々心持が悪いのでいつもより早めにご帰宅され直ちに居間に上がり座られて間もなく、卒然として逝かれたのである。   嗚呼巨星突如として墜つ、享年六十四。

  佐佐木信綱博士の歌に
             み国のため考えし複写印画紙の
                    世にいてむとして世を去りし君

 鈴木博士は死の直前迄、写真化学の事を考え、遂にその指導の書が絶筆なった程、全生涯を化学の為に捧げられ尊き人生記録を残されたのである。当時自分は京都に居た。交友数十年の畏友鈴木博士を失い公的にも私的にも、その明星を失った京都写真工業会社と共に悲しみは余りにもいたく、余りにも大きな打撃であった。博士を重点として指導の柱として、その創立から経営による京都写真工業会社は全く一時光を失った。昨年秋以来の業績不振に、今又博士の急逝により・・会社はそのため経営組織を変更を余儀なくされた。こうして三菱製紙会社より資本と技術の援助を受けて改めて発足する事となった。博士が生前研究された、複写印画紙の乳剤はその後、門下生等の熱意で博士没後間もなく完成し、京複写印画紙として市場に販売され、日々名声を博している。また新幹部により原紙の透明感光紙も製出された。
 博士の研究は博士の死によって失われるものではない、複写印画紙、透明感光紙となって表れ、戦時下に重要な用途で完全な性能を発揮し、生産増設の緊要場部門に驚異的効果を挙げつつある。かつては失敗した人像印画紙も令息泰治氏により耐熱、耐湯の良品が生まれ、戦線方面に迄輸出されている。
 ここに京都写真工業は立派に更正した。博士の霊に護られるように導かれ全員の努力、勇気を増しつつあるのである。
 謹んで故博士のご冥福を祈る。